新・少年サッカー上達計画

「少年サッカー上達計画」から約6年を経て、「新少年サッカー上達計画」として復活!!

幼少期の天才教育といえば「七田チャイルドアカデミー」でしょ。的な話。

幼少期の天才教育といえば「七田チャイルドアカデミー」でしょ。的な話。

 

で、まあ幼少期の早期教育っていうと、

私の中でまず思い浮かぶのは、

この「七田チャイルドアカデミー」か、

「ヨコミネ式」?みたいなやつですけど、

 

今回は七田チャイルドアカデミー的な方について。

実際は、私は子どもを

七田チャイルドアカデミー的なところに

通わせたわけではないので、

 

ここが実際どれだけの成果を

挙げているのかは知りません。

インチキかどうかって話になると、

個人的には、インチキではないと思っています。

 

ただし、大事な事って例えば

2歳の時に天才だったとしても、

22歳の時に平凡な感じになっていたら

それって効果はあったといえるの?

 

って事です。

 

もちろん、2歳の時に天才だったのに、

22歳の時には平凡になっていたからと言って、

七田チャイルドアカデミーがインチキだったかどうかってのは、

ちょっと責任を七田チャイルドアカデミーに

おしつけすぎだとは思います。

 

よくある話が、大学生まで優秀でも、

会社はいったら、すぐ凡人化してしまう話なんて、

それこそ腐るほどありますし。

 

って事は、義務教育受けたら、すぐ平凡化。

ってのも予想がつきますよね。

 

で、考えてみたいのが、「ベクトル」なのですが、

この成長というか教育のベクトルには、

 

・天才化

 

 

・平凡化

 

のベクトルがあるっていうか。

 

「社会」ってのはまあ平均化っていうか

均一化っていうのを好みますから、

まあベクトル的には、「平凡化」な訳ですね。

 

では、

 

天才化のベクトルってのは

なんでしょうか?

 

っていうこの問を真剣に考えるのが、

天才づくりには欠かせない事なのだと思っています。

 

私個人の考えとしては、

 

養殖モノか?

 

天然モノか?

 

っていうここにヒントがあると思っていまして、

 

養殖モノのメリットとデメリット

 

天然モノのメリットとデメリット

 

ここについて考えてみると、

 

天才ってどうやって作られるのか。

 

が見えてくるかなと。

 

そういえばこの記事のタイトルは、

 

幼少期の天才教育といえば「七田チャイルドアカデミー」でしょ。的な話。

 

でしたね。

 

まあ、素人でもなんとなくイメージできるのは、

 

右脳教育

 

みたいな事をしてましたよね。七田チャイルドアカデミー。って。

 

それで考えてみると、

 

右脳を鍛えると、天才になるのか?

 

っていう事なのですが、

個人的には、

 

なる。

 

って思ってます。

 

ただ、七田チャイルドアカデミーで右脳を鍛えると、

天才になれるかどうかは半信半疑です。

 

理由は、

 

さきほどの、

 

養殖モノ

 

 

天然モノ

 

の部分にあります。

 

あれって、結局

 

平均的、均一的に

右脳を鍛える教育をしているだけ。

 

つまり、

 

養殖モノの右脳教育

 

って感じがするからです。

 

たとえば、テレビか何かで「フラッシュカード」的なものを

やってる動画を見たことがあるのですが、

 

結局は、教室の中に子どもがいて、

先生がそれをパラパラやってるっていう。

 

学校教育で、やってる事が別な内容だけ。

 

みたいな感じに私には見えました。

 

もっと、天然モノの右脳教育ってのは、

ゴツゴツした岩のような感じだと思うんですけどね。

 

特に、幼少期であればあるほど。

 

私が、原澤チャイルドアカデミーをもしも創るとしたら、

ああいう感じにはしません。

 

っていうか私の説は、

 

子どもが天才にならない一大要因は、

 

親側にある。

 

ってのが一貫した主張なので、

子ども側は好きな事やってりゃいいって思ってます。

 

結局、右脳をいちいち教育しなきゃいけないのは、

親が右脳を鍛える環境を提供できない、

ガチガチの人間だからって事です。

 

好きな事子どもにやらせてれば、

子どもなんだから、右脳なんて勝手に鍛えられると思いませんか?

 

こういう矛盾しているような事も、

気づかず、結局自分たちの都合の良いように

教育もデザインされていくって事です。

 

子どもというバケツに穴をあけてしまっている原因は何か?

 

っていうここを考え、改善しない限り、

 

何を注いだところで、

ただただ外に漏れ出ていくだけです。

 

子どもが天才になったり、

平凡になったりってのは、

 

まさに、

 

親次第

 

だって事です。